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源頼朝の家人で稲庭城主の小野寺重道の弟、道矩公が古四王野尻(現在の川連町大舘地区)に館を築き、家臣に命じて刀の鞘(さや)、弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされています。
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この地域で本格的に漆器産業が始まったのは17世紀中頃、元和(1615年)から元禄にかけてであり、川連村を中心に約26戸が椀師稼業を営んだとの記録が残っています。
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藩の許可を得て販路を他国にひらき、江戸時代後期には藩の保護政策のもと、椀、膳、重箱など幅広い漆器がつくられるようになり、沈金、蒔絵の装飾も加わり、産業基盤を大きく築きあげました。
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明治2年の漆器生産額は2,000両と藩の記録にある。明治29年に川連村漆器同業組合が発足。翌年に第1回品評会を開催する。椀木地生産は「水車式ろくろ」や「足踏み式ろくろ」が主流でした。
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稲庭水力電気株式会社が営業し椀木地生産は「電動ろくろ」に。秋田県立川連漆器試験場が設置され、技術研究と開発が進み、内閣総理大臣斎藤実氏が視察に訪れるなど産地への注目度がアップ。
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戦後の経済復興に伴い、家庭の日常使いの器として汁椀が関東近辺へ多数出荷されました。また、旅行ブームで活気づく温泉地へ膳や椀の出荷が増え、昭和51年には国の伝統的工芸品に認定。
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平成8年には県の伝統的工芸品にも指定され、平成10年と平成12年の全国漆器展では内閣総理大臣賞受賞。堅牢さを誇る実用的な器として庶民生活に密着し、地域の主要産業となりました。
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産地のこれからの未来を考え、川連漆器の定義と理念を語り合ったことから産地の指針が生まれ、認知度向上のための産地マークが完成しました。これからの100年へ向け、新たな歩みを始めています。